この一文は日系ブラジル人から依頼され、ブラジルのポルトガル語月刊誌『Made
in Japan』(1998年7月号) に掲載されたものです。
岩倉 務
平和博物館を創る会・専務理事
インドからの手紙
昔、むかし日本の広島と長崎で何が起こったか?
その実際の状況を知って欲しい!
といま私は痛切に感じている。その思いは、この6月下旬私の事務所に届いたインドからの手紙によって触発された。差出人は、ニューデリー市の「全インド退役軍人連盟
(All India Ex Soldier's League)」副会長という肩書の人で、農村地域で社会福祉関係のボランティア活動に専念していると自己紹介していた。そして、見ず知らずの私たち日本人に訴えていた。
「先日、亜大陸で核実験が行われたことで、いま最も重要なことは、核兵器についての意識の向上です。なぜなら、私たちの国のほとんどの人々は、核兵器の恐ろしさについて何も知識を持っていないからです。日本の広島・長崎の二つの都市の苦難はその縮図です。わが国の政治家は、農村からほとんどの票を集めています。ですから、目で見てすぐ分かる写真などの資料が欲しい。詳しい原爆被爆の実相を、インドの農村の人々に知らせたいのです……」
ついこの間、日本のマスコミは、インドやパキスタン国民の80数パーセントから90パーセントを超える人々が「核実験の成功で、喜びにわき立っている」と伝えていた。だが、インドにも核兵器に反対する人々がいること、そして、その人々は自分の国の市民に、ヒロシマ・ナガサキの被爆の惨劇を伝えることで、警鐘を鳴らし反省を求めようとしていることを知った。
私は感動した。
被爆写真は語る
この文章の中に、ヒロシマとナガサキの4枚の写真が掲載されている。
手におむすびを持って防空頭巾をかぶった少年がいる(写真A)。彼は当時4歳。家は長崎の丘の中腹にあったが爆風で倒壊、彼は顔に母親は頭に深い傷を負った。裏山の竹薮で20時間を過ごし、翌日の朝救援された時の映像だ。
黒焦げの死体の傍でぼう然と佇む少女の写真がある(写真B)。被爆後丸一日経った時の写真だ。彼女は原爆投下の時、たまたま他の町に行っていて難を免れた。自宅は爆心地から200mほどの所にあったので跡形もなくなり、黒焦げ死体の頭にあった髪飾りで、母親の死を認めることになった。
写真Cの燃え尽きた木々の向こうに見える建物は、長崎医科大学と付属病院の残骸だ。学生も患者たちもほぼ全員が死んだ。その背後は、住宅と町工場の密集地だった。
写真Dの手前は今では「原爆ドーム」と呼ばれ世界遺産に指定されているが、当時は広島産業奨励館であった。一面の焼け野はすべて住宅の密集地、つまり非戦闘員の市民が軒を並べ肩を接して生活していた所だった。
数字では語れない悲惨
第二次世界大戦の末期、1945年8月6日と9日に、二つの都市はアメリカの原子爆弾によって消滅した。一瞬にして広島で140,000人が、長崎では74,000人が命を失った。
家も、学校も、病院も、行政・交通・通信などの公共機関の何もかもが、つまり人間とその生活の全てが消え失せたのである。幸いに生き残った人々もいた。しかし、核兵器は超高温の火球と熱線、高圧の爆風を生じただけではなかった。
さらに恐ろしいのは放射能の放出だった。放射線の影響は生き残った人々を、さまざまな病気や疾患、そして「心の病」で苦しめ続けた。いや、被爆者は半世紀以上経った今もなお、実際に病気や孤独な暮らしで苦しみは続いている。これは誇張ではないのです。
激変する核状況
最初の核兵器が広島と長崎に投下されてから53年。もうすぐ21世紀を迎えようとしている。そうした時期に当たる今年5月、インドとパキスタンが相次いで核実験を強行した。この事の重大さは、核実験直後の2つの国の指導者の発言によく示されている。インド首相は次のように述べた。
「敵を黙らせ、力を示すために核実験を余儀なくされた」。パキスタン首相の発言も暴言といわなければならない。「われわれはヒロシマ・ナガサキの二の舞いをしたくない。日本も核兵器があれば、被爆しなかったはずだ」。
この理屈によれば、核武装国は近隣の国々から始まって、次々にドミノ倒しのように広がり、すべての国が核兵器を持たなければならないことにもなる。それは核戦争の危機を限りなく増大させる。余りにも愚かである。したがって、核保有はもちろんのこと、こうした考え方そのものが、人類に対する挑戦であり、犯罪と言わなければならない。核軍拡競争は、その国の富を軍事に向けて市民の暮らしを圧迫し、決して豊かさを生み出すことはできない。冷戦後にあって、核戦争の起こる確率を増大させ、世界の核状況激変への道を開いた暴挙だと、私は強く抗議したい。
核五大国の奢りと矛盾
だが、問題はインド、パキスタンだけにあるのではない。より多くアメリカ、ロシア、フランス、中国、イギリスの核兵器保有大国の責任が問われなければならない。自分たちだけが核を持って、インドやパキスタンの核保有を非難する矛盾は通用しない。最大の問題は、核五大国による核兵器の独占体制にある。その裏には時代錯誤の核抑止論がある。それを支えているのが、穴の開いた器のような核不拡散条約(NPT)と包括的核実験禁止条約(CTBT)だ。
それは不公平で、利己的で、矛盾に満ちたものである。つまり、核大国が自分たちに都合よく「核を管理」する体制で、今のところ「核の廃絶」に確実に向かう保証はないからだ。その水漏れ穴が、インド・パキスタンの核実験を許す結果につながった。
この矛盾とジレンマから抜け出すには核兵器をなくす以外にはない。
期限を切った核廃絶を
では、人類はどうすべきであろうか?
まず日本はアメリカの核の傘に依存する安全保障政策から抜け出すべきだろう。それでないと、被爆国とはいえ他国への説得力は持ち得ないからだ。CTBTの禁止対象から外されている未臨界実験(Sub-Critical
Nuclear Test)も直ちに中止すること、そして他国に対して先に核兵器を使わない誓約を要求したい。さらに重要なことは、はっきりと「確実に期限を切った核兵器の廃絶」のための真剣な努力と行動に、今すぐに取り組むことだ。
世界の市民と政治の最大のテーマに、「この美しい惑星から一つ残らず核兵器をなくす」ことを据えるべきだろう。人類の歴史はこの世紀末で、終焉を迎えるかも知れない。53年前の過去は優れて今日の問題となった。
だがまだ、希望はある。かつて核保有国だった南アフリカ共和国は、核兵器をすべて解体した。あなた方の国ブラジルも、アルゼンチンと共に南米の非核地帯条約の中核になっている。私たちも微力な市民運動だが、インターネットや写真集、映画などを通じて、ヒロシマ・ナガサキの実相を伝える努力を続けたい。
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