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朝日新聞東京本社版 1995年5月3日『論壇』


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羽仁 進(Susumu HANI)


  最近ある記録映像を見て、衝撃を感じた。いまから五十年前の長崎で撮影されたものだが、おそらく、長崎を占領したアメリカ海兵隊のカメラマンが撮影したものであろう。
  広島・長崎における原子爆弾の被害の映像記録を公開しようとする私たちの努力は、十数年前「10フィ−ト映画運動」として多くの方の支援を受け、何本かの映画を製作することができた。あの時入手したのは、アメリカ戦略爆撃調査団によるカラ−・フィルム八万五千フィ−トが中心であった。いずれも敗戦の年の十二月から翌年三月にかけて撮影されたものである。

  今度発見されたのは、それよりも早い九月二十三日から撮影されたものなのだ。この日に沖縄占領のアメリカ第二海兵師団が長崎に上陸している。撮影は上陸用舟艇の中で、ヘルメット越しに見える長崎の遠望から始まっている。そのカメラが写し出す長崎の原爆被害は、昨日のような生々しさで、見る者を撃つ。
  今まで公開された被害の情景は世界に大きな反響を呼びおこしてきた。それよりも、はるかに混沌(こんとん)とし雑然とした情景が、次々に記録されている。私たちには、長崎で被爆した仲間もいる。彼が今回の映像を見ながら、思わず叫んだ。「あっ、あの焼け焦げた電車!たしかに、あそこにあった!」。
  原子爆弾が破裂した瞬間に、その場で炎上した進行中の電車。その姿は、この三カ月後に撮影した戦略爆撃調査団の映像からは、消えていた。あの徹底した破壊と敗戦の中でも、人々は働きつづけ街を片付けた。それは必死に生きる者の当然の営みといえよう。巨大な傷をいやそうとする自然な努力が、いつか傷口を包んでいくように、敗戦から日がたつにつれ、被爆の生々しい実態のある部分が覆い隠されていくのだ。

  最近、原爆投下の判断についてアメリカで論議が行なわれている。日本でも戦後五十年を機会に、あの戦争を見直そうとする議論が盛んになってきた。私たちが恐れるのは、そのような論議が、それぞれの人の頭や心の中のイメ−ジだけによって一人歩きすることである。実際に重い体験をした人間でさえ、記憶の中でイメ−ジは変質する。いわんや、その時代を知らない人々にとって、伝聞だけによるイメ−ジがいかに頼りないことか。記録的な映像は、そのようなイメ−ジのゆがみを修正して、当時の現実と体験、時代の様相を想起させる有力な手段である。
  いまもっとも心配するのは、このような映像そのものが失われていくことだ。半世紀という年月は、あの時代の技術水準による写真・映画の保存にとっては、大きな負担である。例えば、被爆翌日の未明に長崎入りした写真家山端庸介氏の残したネガフィルムである。人間の被害、おびただしい死と呆然(ぼうぜん)自失する市民の姿に焦点を絞り込んだ氏の写真は、あの時を鮮烈に記録した貴重な歴史的遺産である。しかし、年月はそのネガをむしばんでいく。膜面の粒子銀が剥離(はくり)して映像が消えていくのである。

  山端写真の危機を救ったのは「10フィ−ト映画運動」に参加したアメリカ映画界の友人たちであった。彼らは、コンピューターでネガフィルムを復刻、再生してくれた。そのCD化されたデジタル映像そのものも、永久保存の対象になることは、いうまでもない。彼らの一年にわたる努力はもうすぐ完成する。よみがえった映像は、この夏サンフランシスコ、ニューヨーク、長崎の三都市で「五十年目の写真展」として、同時開催される。私たちの手元にも同じ展示用セットがとどき、希望する市民による巡回が可能になる。
  しかし、同じように貴重な映像群が失われつつある。最近急逝された写真家菊池俊吉氏は、あの戦争にかかわる二万点のネガをのこされた。御家族とも相談しているが、整理、保存、資料としての活用、いづれも個人では背負いきれない時間と労力、資金が必要だ。同じ例は他にも多い。 就任された青島幸男・東京都知事に、「平和のための写真・映像資料保存館(関係国共同参加の平和博物館」)の建設を提案したい。あの戦争についての記録は、われわれの時代の負の遺産かもしれない。いや、だからこそその保存が大切なのではないか。


(映画監督、平和博物館を創る会代表理事=投稿)