山端 庸介
長崎撮影メモ
(1952)


 

 終戦後八年を経て、私が撮影したこの写真記録が世に発表されることになり、当時を回顧して感慨無量のものがあります。
 原子爆弾の戦力的威力や、被害の悲惨なことに就いては、種々と専門の方や被害を受けられた方々の記事が発表されて居りますので、私などの語る可き事とは思いませんので、私は私の立場で、この写真で一切、皆様方が自由にお考えになり、キャメラが冷厳に記録したデーターで批判していただくのが、私の務めと思います。
 当時この写真が如何なる理由で撮影され、如何なる目的で撮影されたかを申述べることは、この写真記録をご覧になる方々の御参考になると思いますので、思い出すまま当時の環境と共に申述べます。

 終戦の年の八月一日頃には、東海道沿線が艦載機で連日攻撃を受けて居り、其の為私は任地の西部軍報道部に行くのに、中央線で名古屋に出て、東海道−山陽道と退避しては走る列車で広島を八月五日の夜通過して、八月六日博多の司令部に着任しました。
 丁度着任の朝に、広島が第一回の原子爆弾の攻撃を受けました。当時はまだこの強烈な爆弾については、「新型爆弾」という言葉で表現され、ただその威力の強大さに、様子を知る人々だけが恐怖を感じておりました。軍部自身、この対策に就いては、唯だ兵隊達に、外出の際出来るだけ露出部を少なくする事と毛布を持って歩く事を司令しておりました。この事だけで原子爆弾に対する、軍部の様子が御想像になれると存じます。一般の市民はこれを更に噂に聞く程度で、実際の威力に就いては今までの十倍位の新型爆弾程度の想像ぐらいでした。

 こんな事で四日目の九日昼食後に、長崎に又新型爆弾が落とされたらしく、詳細は不明だが、写真と、記事:東 潤君と絵画:山田君の三人で直ぐ現地に行くように司令されました。
 汽車は普通ならば六時間位で到着するのですが十二時間もかかり午前三時頃、やっと長崎の手前の道ノ尾駅に到着しました。

 冷たい夜気と奇麗な星空だけが印象的でした。しばらく山添いの坂道を下り、山を越えて行くと三菱の兵器廠の正面に行き当たりました。閉ざされた石の門の前に歩哨が一人着剣して立っておりました。様子を尋ねてみると中は滅茶苦茶との事で、長崎市街は更にひどいとの話でした。

 熱っぽい風が顔にあたり遠く処々に狐火の様に火がチョロチョロと燃えて、既に長崎は完全に破壊されて居りました。この平地の中央が県道なので私達は先へと急ぐのでした。道々人や動物の死体を危うく踏みそうになりながら、足元に注意して進みました。
 一キロ程歩いた処の小さな石橋の袂で私達は緊張させられました。それは石橋によりかかり足を投げ出し赤ん坊らしい子供を抱いた母親に悲しい声で呼び止められたからです。この母親は「お医者さんをお願いします」、「早くお医者さんをお願いします」と譫言の様な声で言うのでした。恐らく被害を受けて十何時間もこの状態だったのでしょう。然し私達には施す術もなく、唯々気休めに元気を出す様に励ますのみで、何も出来ませんでした。勿論赤ん坊は気力なく、ぐったりしていました。私達は更に一面焼土と化した中を、道なき道をさがし、二時間近くもかかって、やっとの思いで明け易い夏の早朝、憲兵隊本部に到着しました。

 私は今、通過してきた道の状景を思い浮かべながら煙草に火を付けて、出発の際、出来るだけ対敵宣伝に役立つ、悲惨な状況を撮影する様、命令されたことを思い出しつつ、又私自身としては、この悲惨な事実に対し、如何にして生命を全う出来るかの解決の鍵を発見すること、この二つのテーマで長崎の原爆を撮影する意図を決め、撮影可能になる迄の夜明の美しい空を眺めて、休んでいたのでした。

 市街の状況は他の爆撃と異なり、一瞬にして全市(四キロ平方程)が爆風と、火災で焼土と化して了ったので、火災の為の消火作業も、救援の為の医療班の活動も机上の空論化し、ただ時間の経過を待つのみで、僅かに、立地条件の良い防空壕の人々が助かったのみでした。
 例え付近の医療班や消火隊が駆け付けたとて、道路は瓦礫と焼材木で交通は出来ず、水道管は何処にあるか見当さえつかない有様なので、消火はもとより不可能であります。更に之を連絡す可き電信電話も不通で正に生地獄と思われます。又、僅かに生き残った人達も強烈な放射線で、眼は焼かれ露出部は火傷を受け、杖にすがり当てなく彷徨し、ただ救護を待つばかりでした。加えるに、八月の直射日光はさえぎる雲一つなく、被爆長崎の第二日目は全くの油日照りで無残そのものでありました。

 食料の救援、炊き出し等は早朝から行われていましたが、救護隊が大村の海軍基地や諫早の陸軍部隊から到着して手当てを始めたのは正午頃からでした。こういう状況で午後三時頃迄、撮影の仕事を続け、司令された時間の限定があるので帰路につきました。重傷の人々が病院へと護送される列車に便乗して博多に帰着したのは、十一日の午前三時頃でした。
 然しこの写真が現像されて、末期的現象を表していた軍部の手によって発表され、日本の民心の最後の士気鼓舞や、続いて行われるであろう原爆攻撃に対する最も消極的避難方法に、誤った利用をされなかった事は不幸中の幸いであったと思います。

 人間の記憶は年々環境の変化や、生活の変化で批判が甘くなったり、誤ったりして行きますが、キャメラが把握した当時の冷厳なる事実は、今日でも少しも粉飾されず、八年前の出来事を冷静にそのまま皆様方の前に報告しております。
 今日、長崎も広島も原爆の被害から立直り復興目ざましいものがあり、旧時を偲ぶのも困難かと思いますが、この写真記録は永久に何の歪曲もなく当時を物語っております。


 

山端庸介撮影メモ: 「原爆の長崎」(第一出版発行、昭和27年)より
北島宗人編集

英語版対訳: ミリアム・ サス 。
「長崎ジャーニー・ 山端庸介写真集」ポメグラネート プレス発行、1995年)
ルパート・ジェンキンス編集・クリストファー・ビーバー/ジュディー・アーヴィング制作・日本側制作協力・石渡マヤ・ 岩倉務・ 山端祥吾

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