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東京都知事 青島幸男様
tokyo_pm.
「都民からの意見公募」に応えて

1998/11
平和博物館を創る会
東京都港区芝1-4-9
専務理事 岩倉 務

 すでに私たちの平和博物館を創る会理事会(代表理事・羽仁進)では、『首都圏に開設が期待される平和博物館(総称)基本構想・試案』を国際平和年 (1987年1月) に当たって発表し、青島幸男知事ご就任直後には、文書で知事秘書室宛てに提出しご検討方をお願いしてまいりました。またさらに補足的には、『平和博物館を考える』(市民ライブラリー双書・平和のアトリエ刊)を発行して、広く私たちの考え方を世上に問いかけてまいりました。しかし、この度、改めて「東京都平和祈念館(仮称)建設委員会報告書」(以下「報告書」と略)について、都民の意見を公募されていることを新聞紙上で知り、意見を述べさせて頂くことと致しました。
 これを機会に、再度私たちの総括的な意見として、『首都圏に開設が期待される平和博物館基本構想』が収録されている『平和博物館を考える』を別送にて提出致します。しかし、ここでは「報告書」に述べられているいくつかの論点についてのみ、要点を記すことといたします。

1.建設・展示室の規模について
 当初、「東京都平和記念館基本構想懇談会報告(長井道雄・座長)」によれば、延べ床面積を4,500〜5,000uとしていました。それが今回の「報告書」では、4,500u以下(復興記念館の面積を含む)×高さ15m未満となっています。すると、復興記念館の常設展示室のスペース550uを差っ引くと3,950u以下となって、これでは、規模の大幅な縮小です。更に、A案の「東京大空襲」(空襲の始まりから復興まで)を扱う展示面積は、400uに過ぎません。そうしますと、東京空襲の扱いは震災の7割強でしかなく、これで良いのかという疑問にすぐ突き当たります。私たちは、東京の空襲被害の凄まじさを後世に伝えるには、余りにも不十分だと考えます。これでは、戦争を反省することにならないと思うからです。
 私は戦争の時代、銀座っ子でした。1942年4月18日の東京初空襲は銀座通り裏の自宅物干し台から眺めていました。それから2年半空襲はなかった。だが、1944年11月下旬から敗戦までに東京全域で130回の空襲を数えています。1945年の3月10日を挟んで、銀座も4回の空襲を受け、街の約8割を焼失しました。私の家も学校も失われました。戦争という最大の人災を伝えるのに、天災より軽い扱いとは納得しかねます。
 さらには、首都東京の空襲戦災体験の伝承のほかに、「報告書」はもう一つのコンセプトとして「核時代と平和の今日的な問題」を掲げています。この展示スペースがA案で200u。B案で160u。これでは、内容が“うすく、ぺらぺら”になって、東京下町の名物「もんじゃ焼き」の様になってしまう。展示の「もんじゃ焼き」は頂けません。余りにも、常設展示場は全体として狭すぎます。
 開設以来長い歴史をもつ広島・長崎の原爆資料館を除くとしても、隣の埼玉県平和資料館、大阪国際平和センター、更には来年の新館開設時には1万uの規模となる沖縄県立平和祈念資料館に比べても、「報告書」は、恥ずかしいほどの規模となっています。以上から、まず第一に、常設展示室の規模を拡大・増大するよう、根本から再考すべきことを強く要請したいと思います。

2.建設場所と地下施設について
 「報告書」によると、都立横網町公園が最有力候補地になっています。でも、それに賛成する委員の意見を読んでも、私たち都民の立場から見て納得出来るものはありません。むしろ、取ってつけたようなものさえある。「戦災も震災も大勢の身内が亡くなった点で同じである」「慰霊堂に合祀されている遺骨(空襲戦死者の)があるからこそである」。前者は、余りにも無神経な発言であり、後者は、海老名香葉子委員の「合同慰霊のできる建物ではない」との意見や、橋本代志子委員の「東京都と都民が、長い間、戦災死者を省みなかったこと」の証左であるとの意見に同感します。私個人としても、震災プラス空襲というのには、ザラッと来る。子供の頃から、地震がある度に旧被服廠跡の悲劇については、耳に胼胝が出来るほど聞かされてきた性か、感情的にも受付け難いものがあるのです。
 しかも、平和祈念館は震災復興記念館の地下に設置し、出入り口を別々にするから良かろうといった物言い。また何故か「報告書」には、横網町公園を候補地にした経緯の説明が書かれていません。そして、「都立横網町公園と東京都江戸東京博物館を視察しました」とあるだけです。これでは、意見の出しようもありません。他の場所も視察しないのか? なぜ、海外の平和関係施設を視察しないのか? 予算がないというならば…、海外に(ヨーロッパ・アメリカ・旧社会主義圏、そして中国・韓国をはじめアジアなどに)多くの平和博物館的関係施設があることはご存じの通り。それらを訪ね、研究している人々は大勢います。それらの人々から建設委員会は、意見を聞いたのであろうか? さる11月上旬にも大阪と・京都で「第三回世界平和博物館会議」があったばかりです。海外代表60数名を含めて、延べ400人を超える参加者によって、実に多くの貴重な経験が語られました。なぜ、東京都からは出席しなかったのでしょうか?
 私の周囲の普通の都民は疑問に思っています。臨海副都心に場所はないのか? 児童の減少で廃校になる小中学校の敷地利用は出来ないものか?と。 ごく具体的には、「『首都圏に開設が期待される平和博物館基本構想』なら開設の意味がある……中央区立・泰明小学校の校舎の屋上から数寄屋橋公園に架けて、新設したらどうだろう?」という銀座人士たちの大真面目な意見もあるのです。1945年1月27日の銀座空襲は、カーチス・ルメイ将軍の指揮で行なわれた最初の人口稠密地区に対する攻撃でした。この時、泰明小学校に3発、数寄屋橋公園に1発の爆弾が投下され、4人の先生が即死、2人が重傷を負った史実があるからです。この日、築地・丸の内・京橋警察署管内で、死者199人・重軽傷者440人・全焼から半壊にいたる家屋496戸という記録が残っています。
 述べたいことは、次のことです。もっと真剣に、新たな設置場所を再検討していただきたいと思います。旧陸軍被服廠の跡地は、あくまでも関東大震災のみの「聖地」として緑深い公園のまま保存し、平和祈念館は別に設置場所を求めるべきなのです。横網町公園の地下室とは、「21世紀にむけた東京の平和のシンボル」とするには、余りにもお粗末すぎるのではないでしょうか?

3. 国際的都市・東京の特別な役割
 首都東京は、世界最大規模の人口をもつばかりでなく、21世紀に向けて世界の中枢的都市になっています。ですから、その街の中で生きる市民の願いと活動を基礎に、自治体と市民が各種組織・団体・企業などと共に、より緊密に連携し協同して、さまざまな分野、領域、レベルでの平和創造への取り組みを通じ、世界平和に積極的に貢献していく意味は、限りなく大きいと思わずにはいられません。今21世紀を前に、私たちは平和のための創造的活動を保障し、状況に見合って常にその市民活動を発展させてゆけるような平和機能を、都市機能の一つとして持つべき時だと考えています。一市民の安全保障は、都市によって守られ、保障されなければなりません。今日の安全保障は、戦争に備えるのではなく、平和を創造していくことにあります。その貴重な手立てであり、拠点の一つが、平和祈念館・平和記念館・平和館・平和情報センター・平和博物館だと思います。
 とくに、平和のために「遺す=伝える=受け継ぐ=創る」営みが、継続的に保障され表現できる社会的な場、社会的な装置・システムとして、平和施設は考えられなければならないと思います。

その立場から、あえて次の三点を指摘したいと思います。

 

  @ 戦争の全体像と実相を伝えることの重要性。
 私自身もすでに触れたことですが、空襲体験は都市の戦争体験として極めて深刻な体験であることは言うまでもありません。しかし、展示基本設計の考え方A・Bともに余りにも「空襲・戦災体験」に絞りすぎていないか、という問題です。空襲戦災に至る政治的・軍事的・社会的な背景・過程が、文献・写真・映像・物品資料等によっても示されることが重要ではないでしょうか? そうでないとなぜ戦争が起きたのかが理解出来ず、戦争への反省も出てきません。「近代から終戦までの年表」と「空襲下の暮らし→総動員体制」では、とうてい不十分と言わざるを得ません。
 例えば、少なくとも「15年戦争と東京」といった展示コーナー部分が必要でしょう。
その意味で、東京都生活文化局が、「東京空襲に関する資料を探しています」の色刷りちらしを出して呼び掛けていることには賛成です。しかし、同時に戦時生活全体を念頭に置いた諸資料、あるいは戦争体験の手記・証言・聞き書きなども積極的に集めて頂きたいのです。一例をあげるならば、東京の人口動態は激しく、そのことは同時に、全国的な戦争体験が集積していることをも、十分予測させるからです。

 

  A ヒロシマ・ナガサキの体験を伝えることによる核問題の重要性。
 「報告書」A案では『平和を求めて→核時代と大都市』、B案では『平和を脅かす今日的問題→核時代と大都市』で、ともに核問題を掲げていることは大いに評価出来ます。しかし、A案では「核を取り巻く状況説明」に傾斜していますし、B案では「都市空襲の視点」に狭められています。なぜ、広島・長崎の被爆体験を正面から取り上げようとしないのでしょう? 広島と長崎の体験は、言うまでもなく核兵器廃絶という人類史的な課題の原点となる重要な体験であり、まさに「今日的な課題」でもあります。現在東京都には全国の被爆者の1割近い方々が住んでいます。ヒロシマ・ナガサキの実相を伝え、積極的に継承していくことは、東京でも活発に行なわなければなりません。それは、広島・長崎の両自治体にだけ負わせるべき責務ではなく、また両市の資料館(広島平和記念資料館・長崎原爆資料館)を訪れなければ、それぞれの都市の被爆の実相を語る資料に接しられない状況は、改善されねばなりません。とくに海外からの訪問者の多い国際都市・東京としては、なお更のことです。

 

  B 国際的な相互理解と協力・連帯の視点を。
 戦争体験を考える時、当時の軍隊経験、あるいは海外における日本人自身の戦争体験を忘れるわけにはゆきません。それはアジア・太平洋地域の他国内に日本がもたらした戦場での戦闘体験を含む侵略と支配の体験です。当時、国家意思でそれに参加させられた日本国民の一人一人にとっては、同じ人間同士が敵と見方という関係の中で殺しあう極限状況のもとで、自分自身と他国民衆の二重の戦争体験を背負うものとなりました。それらの体験は余りにもにがく苦しく、また日本の加害者としての立場を明らかにするところから、ややもすると思い出したくないという心の動揺を誘い、戦争体験の中から無意識にせよ欠落させてしまう市民感情さえもが見られる深刻な体験です。
 しかしだからこそ、次の世代に二度と繰り返させてはならない体験であり、戦争の最も悲惨な実相を明らかにする体験にほかなりません。敗戦につづく抑留や引き上げの体験をも含めて、それらの歴史上の事実と体験の集積を除いて、戦争の本当の姿を知り、語り継ぐことはできないでしょう。
 「報告書」のもととなった『東京都平和記念館基本構想懇談会報告(永井道雄座長)』の中には、次ぎのように書かれています。
「平和記念館は、先の大戦におけるアジアを中心とする世界各地の戦争犠牲者を悼み、東京を訪れる外国人と一緒に平和を考える場となることが望まれます。」(『平和記念館の基本的な考え方について』より)
 「満州事変から終戦までの戦争の歴史を紹介し、東京空襲の悲惨さがなぜ起きたのかを理解できるようなものにしたいと思います。日本がどのように戦争に係わってきたかを、被害の面のみでなく、犠牲をしいた側面からもとりあげることが望まれます。とくに、アジアでの戦争の爪あとを示す資料をアジアの各都市から提供してもらい、展示することを検討すべきと考えます」(『平和記念館の事業について/資料等の展示A戦争の歴史』より)
まったく正しい指摘と考えます。その答申は何処へ消えてしまったのでしょう?

 
以上を述べた上で、詳しくは前記『平和博物館を考える』をご参照くださいますよう心から願うものです。

以上

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