3.松重・山端両氏の写真の場合
ここで、コンピュータ修復のことについて、もう少し多くを記さなければならないと思う。おそらく歴史的写真資料のそれについては、日本では初めての試みであったに違いないからだ。
広島での被爆当日の広島の惨状を写した写真が、5枚だけ存在していることは良く知られている。
松重美人さんが6×6センチ判フィルムで撮影した1.市南部千田町付近、御幸橋西詰めの交番周辺に、劫火から逃れてきた人々がぐったりと座り込んでいる群れを写した視野の広い1枚と、焼かれた皮膚に食料油を塗っている被爆者の固まりに、さらに近寄ってショットした2カット。2.皆実町交差点横で頭部に包帯を巻いて罹災証明書を発行している巡査を中心にそれを取り巻く被爆者たちの一枚。3.自宅理髪店内の破壊状況と窓越しに外を写した写真など計5枚である。
私はその最初に撮影された写真ネガと、原爆ドーム・相生橋が元安川にくっきりと映っている1枚のネガの損傷状態が、初めてみた18年前から気になり続けていた。それというのは、前者は、当時すでに橋の歩道上に上向きに横たわっていた一人が、消えかかっていたからである。紙焼きを作って印画紙の表面でスポット修正しようとしても、再生はとうてい不可能だった。やむなくその当時から20年近く前に焼いたと思われる茶褐色に変色した六ツ切の紙焼き写真を、前記写真集の原稿とした(本写真展に展示中)。「その複写ネガと元ネガとを合成することができたら…」と、当時1サラリーマンでしかなかった私たち素人の想いは残っていた。
また後者について言えば、実に不思議な雰囲気を持った写真なのである。欄干が爆圧で飛んだ相生橋が画面の中央を水平に走って、川の水面は鏡のように滑らかで、そのため上下対象に画像を逆さまに作っている。そして一見夜景のようにも錯覚する写真であった。被爆後20日程後に写したもので、実は夜景と見紛うのは、現像むらによる。
松重さんの証言によると、疎開先温品の野外の夜陰の中で、パットを地面に置いて手探りで現像、水洗は小川の水でしたり、東洋工業のレントゲン室を暗室代わりにして現像するなどしたという。とくにこの1枚は、貴重なフィルムが滅びてゆく象徴のように思えてならなかった。
同様のことは、山端庸介氏の一枚の写真にも言えた。長崎の被爆翌朝、井樋の口町付近の県道上で、おむすびを手に持つて並んで立つ山田文子さん、伸二君母子の写真である。
この写真の場合は、18年前には画面右中央部に上下二つのほぼ円形の白い斑点ができかかっていた。だが、これはスポット修正でそう目立たない程度に、補修することが可能だった。ところが、どうだろう!
昨年5月、山端庸介氏のご子息祥吾さんを長崎に案内した時点では、現像段階で白っぽく抜けていたと思われた二つの斑点は、その形のまま黒い汚れへと変質していたのだった。
そのため、昨年8月に刊行した山端庸介氏の撮影行を辿る内容の青少年向け写真集『写真物語/あの日、広島と長崎で』(A4判64ページ/平和博物館を創る会編・平和のアトリエ編)に使った写真には、その黒い大きな汚れが、長い時空を生き抜いてきた勲章のように、付いたままでいる。
私はその上方の黒い汚れの背後に、うっすらと写っている三菱製鋼所第2工場の一角にあったコンクリート2階建ての建物を、14、5年前から特定していた。というのは、空撮や浦上の丘や地上から被爆状態を詳撮した米軍の
500枚に上るナガサキの調査写真を入手していたからである。
それらは、ほとんどがスピグラの4×5のネガで撮られていて、シャープな映像を今日に伝えている。それらの写真群の中には、「うっすらと写っている」建物と同じ形状の建造物は、ただ一つしかない。しかも、当時のその工場事務所が、遠方からだがほぼ同じ角度で写っている写真が、1枚あったのである……。
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